★キスシーンに見るキリスト教の救いと許し
キスの直前、セリアズがヨノイの元へ進み出るシーン。
誰もセリアズに触れられないオーラがあって、まるで彼は群衆の中を裸足で十字架を背負い、ゴルゴダの丘に向かって歩むイエス・キリストのようだ。
そう、彼は「救い」そのものなのだ。
ヒックスリの命だけではない。
ヨノイの心も救い、弟との過去を後悔する彼自身を救うために、クリスマスの朝にセリアズは自らを犠牲にした。
そう解釈できたとき、ああ、この映画は「究極の人間愛」と「救い」「許し」を描いているんだ、と心の中にストンと落ちてきた。
この解釈の仕方はとてもキリスト教的かもしれない。
欧米の人たちがこの作品を愛してくれるのは、その解釈がしっくりくるところもあるかもしれない。
それを思うと、尚のこと、メガホンをとった“ニッポン人”である大島監督はすごい人だなあと感心してしまう。
<余談>
ヒックスリ捕虜長がいよいよ処刑されるというその時、ゆったりとした足取りで身なりを整えながら前へ歩み出てくるセリアズ。
その時、不思議な違和感がある。
周りで銃を構えている日本兵が、微動だにしないのだ。
約一名、前へ出ていた捕虜将校が身体を前のめりにした時、目の前にいた日本兵が銃剣で押し戻す動きを見せている。
セリアズはゆったりと歩いてくる。
そしてヨノイとヒックスリの間に立つまでの間、誰もそれを止めないのである。
「あんたら何のために銃持って立ってんの」とツッコミたいのはやまやまだが、このシーンには、セリアズの神秘性が画面いっぱいに描かれているのだと思う。
誰もセリアズに触れられないもうひとつの理由があるとしたら、やっぱり隊長どののお気に入りのセリアズだからね……
暗黙の了解で「奴が動き出したが、手え出すなよ! 出したらこっちの首が飛ぶぞ!」とか思ってんのかもしれないな。というのは冗談。失礼。